私:「坂本龍一さんが亡くなったんだってさ」
妻:「サカモト リュウイチってだれだっけ?」
遠くの部屋から妻の声が聞こえる。
私:「坂本龍一を知らないなんて、恐ろしい時代になった。あの世界を席巻したYMO、“戦メリ”の坂本教授だよ」
妻:「あーっ、ビートタケシが出ていた昔の映画ね」
私:「“メリークリスマス、ミスターローレンス”ってやつだよ」
「高校生であの映画を観て衝撃を受けたよ。同性愛的なできごととデヴィッド・ボウイが坂本龍一の頬にキスするシーン。観ていていいのか、観ちゃだめなのか混乱して恥ずかしかった思い出がある。心に焼き付いている映画だね」
YMOは日本、いや世界の音楽シーンを変えたバンドであると私は確信しています。それまではフォークやロックなど、メッセージが歌詞に込められた「うた」が私にとっての音楽だったからです。
クイーン、レッド・ツェッペリン、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、ポリス……圧倒的に音楽は「うた」だったのです。
YMOは「うた」でもなく「楽器」でもなく「メロディ」でもなく、名前すらない“何か”でした。それまで見たこともなかった「シンセサイザー」というものから、無機質でクールなリズム、人の声のようにも聞こえる、訴えかけるような音の流れが紡ぎだされていました。それに細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏のクールで洗練されたビジュアル。中学生の僕たちは、友だちの部屋で“ライディーン”で踊りまくった思い出があります。同年代の経営者諸氏も同じように感じられたのではないでしょうか。
才能あふれる著名人、科学者、芸術家、政治家などがお亡くなりになると、大きな宝が失われたように感じてしまいます。この国や組織、社会を良い方向に進歩させ、牽引してきた偉人たちがこの世からいなくなってしまう。科学や文化、芸術は停滞したり後退したりしてしまうのではないだろうか。この先大丈夫なのだろうか? と不安に感じてしまうのは私だけでしょうか。
東京大学教授の小林武彦教授は著書『生物はなぜ死ぬのか』(講談社現代新書)の中でこう書いています。「死は、進化と多様性をもたらすために必要なもの」「生物は常に試作品であり、次の新しい生物の進化につながるものである」。
偉大なアーティストが亡くなっても、大切な人が亡くなっても毎日は変わりなく続いていきます。
小5娘:「パパこの曲聴いてみて。この曲、GUMIだよ」
私:「この曲ボカロだろ。知ってるよ」
小5娘:「違うよ、ボカロじゃないよ。これ歌ってるのGUMIだよ」
私:「GUMIってボカロじゃないの?」
小5娘:「ボカロの中にも、例えば“初音ミク”とか“鏡音リン・レン”とかいろんな“中の人”がいて、キャラクターがあるんだよ」
私:「????」
「ボカロって、ロボット音声じゃないの?中の人って?ロボットの中に人が入っているの?」
坂本龍一教授のいない世界でも、音楽は毎日進化し多様化が進んでいることは間違いないようです。少し安心しました。