私:「ねえ死んだらどうなると思う? 亡くなった父さんや母さんの“心”とか“魂”がさ、まだこの部屋の隅にでも漂っていそうナ気配がするんだよね」
妻:「私は死んだら無になるだけだと思うよ。“心”も“意識”も何にも残らない方がすっきりするし自然な気がするもの」
私:「チベットのダライ・ラマさんは何度も生まれ変わっているらしいよ。輪廻転生って言って、その人の“心”や“精神”が生まれ変わっても引き継がれるんだって」
妻:「人間が“セミ”に生まれ変わったドラマがあったけど、人間以外は嫌だな」
小5長女:「私は鳥がいい。だってディズニーランドに飛んで行けばタダで入れるもん」
高3長男:「アホだなおまえ。鳥なんかになったら、焼き鳥にされるぞ。俺だったら、韓国アイドルの顔で、ビル・ゲイツくらいの大金持ちに生まれ変わりたい。でも死ぬときって、貯めたお金持っていけないんだよね。生まれかわりってコスパ最悪じゃん」
昨年12月に母が亡くなり、その翌月、母を追いかけるように父が他界した。
いつも居てくれて当たり前の両親が、どちらもいない世界。
アラ還中年の私は思春期以来の「心の穴」を体験した。
喪失感、虚無感。胸にぽっかり穴が開いた気がした。
2か月連続喪主で母、父と両親を旅立たせる葬儀式を何とか終えた週末。
朝6時頃起きて、お茶を飲んでほっとした後、気が付いたら夕方17時になっていた。半日の記憶が全くなくなっていた。
おっ、これが「解離」ってやつか。障害年金のお仕事ではよく聞いていた言葉である。
「解離」とは「苦痛によって精神(心)が壊れてしまわないように防御するために、痛みの知覚や記憶を自我から切り離すこと」である。(出典:厚生労働省e−ヘルスネット)
「私の精神(心)」が、しょんぼりしすぎの私を見て、気を使ってくれたのだろう。ありがとう私の精神くん。しかし、「精神(心)」とか「意識」ってどこにあるのであろうか。
毎日、陰日向なく、様々な場面でお世話になっているはずなのに。
脳科学的に「意識(心)」は脳の「情報統合機能」であることが唱えられている。
人は成長過程で膨大な量の情報をインプットし、その情報を元に「世界モデル」を構築する。
その脳が作り上げた「世界モデル」がその人の現実(物語)となるそうだ。
そして、「自分という意識」というそのものは無く、感覚器官からの情報に対して脳が予測・反応する各機能の集合体が「自分という意識」であるという事らしい。
神経科学者のジュリオ・トノーニは著作「意識はいつ生まれるのか」の中で次のように言っている。
「脳の1,000億個のニューロン細胞のなかで意識(心)を司る領域は見つかっていない。
脳波やあらゆる医学的検査を行っても、人の意識が有るのか、無いのかすら確認する方法がない」
「肉体の死亡は確認できるが、意識(心)喪失(死んでいる?)か、有る(生存?)のかはわからない」
先日、寝ようと布団にはいったら、洋服ダンスに掛けてあったスーツが頭の上に落ちてきた。
こんなものが落ちてくるはずがないんだけれどな、はて……。
あっ、やばっ。帰宅してから、仏壇にお茶と線香あげるの忘れていた。
どうやら父と母の魂(精神)は、四十九日まで我が家にしっかりいらっしゃる様子。
今でもさまざまなご要望をひしひしと感じる、今日この頃なのだ。