令和6年1月1日元旦。お正月の家族団らんを大きな揺れが襲った。
大きなドスンという衝撃、その後ゆっくりと粘着質な揺れが家を揺り動かした。
私:「早くテーブルの下に隠れなさい」
妻:「怖い、怖い。どうしよう、どうしよう、家が壊れる」
私:「津波警報が出てるね。非常用品、水と食料と発電機を持って2階に上がるよ。あらら、非常用品の水、
ようかん、フリーズドライ食品も全部賞味期限切れだ。発電機はあるけど、ガソリンとオイルが入ってないよ」
小5娘:「こうめ(我が家の番犬)も2階に連れて行っていい?」
高3長男:「プレステ持っていっていい?」
私:「きみ、冷静? それともアホなの?」
日本で震度を計測できるようになってから、約80年。
その間に震度7以上の超巨大地震が7回。
それもすべてここ最近20年間に発生し、住宅全半壊、死者、負傷者など大きな被害を出してきている。
特に東日本大震災では2万人以上の死者、行方不明者という甚大な被害が出た。
1995年1月17日 阪神・淡路大震災
2004年10月23日 新潟県中越地震
2011年3月11日 東日本大震災
2016年4月16日、17日 熊本地震
2018年9月6日 北海道但振地震
2023年1月1日 能登半島地震
日本は、4つの大きな岩盤(プレート)上に国土があり、必然的に地震、津波、火山噴火などの自然災害とともに生きてきた。
私たちのご先祖様は、毎年のように起こる自然災害に翻弄され、築き上げてきたものすべてを失うことも日常茶飯事であった。
そんな中で自然の力の恐ろしさを知り、自然に真正面から向かっていったところで、地震、水害等の災害は避けられないことを十分に理解し生活してきた。
自然の力を敬い、災害に強い共同体を形成してゆく過程で「水に流す」という世界でも稀有なメンタリティが発達していったと言われている。
歴史学者の樋口清之氏の著書『日本人はなぜ水に流したがるのか』には以下のように書かれている。
「紀元前3世紀頃から稲作が発達し、江戸時代まで稲作が国の主要産業であった。
稲作は、日照り、水不足、台風、冷害、水害という自然の脅威に対し、生き残る為に複数の隣村を含めた大きな共同体として助け合う生活をせざるを得ない産業だった。
“水”を中心に川の上流から下流の村まで含め水利組合をつくり、水長(みずおさ)が争いをおさめ、共同体をまとめていった。
この中には水争いから個人的な恨み、ケンカまであった。
これが解決できなければお互いの生活の死活問題につながる為、わだかまりや争いごとは“水に流して忘れる”思想が根付いていった」
起こってしまった災害や仲違いをいつまでも引きずったり、断罪してしまったりすると、稲作に必要な「共同作業」と「灌漑」を停滞させてしまう。
「水に流して忘れること」は生活を滞りなく進めるための最善の解決策であったのだ。
諸外国(キリスト教、イスラム教など)のように断罪し、白黒と決着をつけ、罪を償わせるという考え方は良い面もある。
しかし歴史的紛争に関しては全く役に立っていないように思う。
2000年前にイエス・キリストがゴルゴダの丘でユダヤ人(実行役はローマ人)によって処刑されたことを根に持ち、今でもユダヤ人差別をしているとか。
これまた紀元前一世紀のパレスチナの地をユダヤの古来の祖国であるなどとして自分勝手に国を作ったりとか。
正直、2000年前のことを根に持って今でもいがみあってるなんて「アホ」としか言いようがない。
この100年間で965人がノーベル賞を受賞し、そのうちユダヤ人は214人。
人口0.2%のユダヤ人がノーベル賞の22.2%を獲得している。
頭脳明晰なはずのユダヤ人が、残念なことにパレスチナとの争いにおいては単なる「迷惑な人」になってしまっている。
日本の幼稚園ですら「人の物はとっちゃだめよ。ケンカしたら、ごめんなさいって謝って、仲直りするんだよ」と教えられているのに。
日本人の「水に流して忘れる」精神。
これが戦争を失くすためのヒントになるのではないかと確信している。
流すことは、手放すこと。宗教も正義も、少し俯瞰してみれば「宗教は自分(達)のエゴであり、自分(達)にとっての正義」でしかないからだとわかるからだ。
何でも水に流してしまう頭脳明晰な私は、先日ふとしたはずみでトイレにiPhoneまで流してしまった(泣)。
「携帯電話の落下事故」と「非常用品の消費期限」には気を付けよう。